津久井やまゆり園の事件(裁判)について福祉従事者が思う違和感

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裁判

津久井やまゆり園での事件

津久井やまゆり園で起こった凄惨な事件の詳細についてはご存知の方が見ているという前提で進めさせていただきます。

僕は津久井やまゆり園と同様の障害者入所施設で勤務をした経験があり、今は通所の施設で働いています。

この入所施設は立ち上げから携わり、その施設の在り方から、日常業務の回し方までをルール化するなど、他では味わえない業務も行ったため、思い入れも強くあります。

そんな中で培われた経験があるためか。

今回の事件・裁判を聞いていて何となく違和感を覚えることが多くあったため、それを文章にしてみようと思います。

まず初めに

最初に書いておきますが、加害者は重たい罪を課せられるべきだと僕は考えています。

 

価値観の多様性という言葉や後述する障害者という言葉にかき回されて本質的な部分がぼやけてしまっていますが、単純に考えて多量殺人事件そのものであり、それを擁護する理由は見当たらないためです。

 

裁判を聞いていて、最初に感じる不自然さ

どうにも拭いきれない違和感として、今回の事件が大量殺人事件であるという側面がどうにもぼやけていて、「障害者」という言葉に引っ張られ過ぎている点があります。

 

もし相手が障害者でなければ・・・となってしまうあたりがすでに差別的であると言わざるを得ません。

 

個人的に「ノーマライゼーション」「差別のない世の中」というものがいかに遠くにあるのかということを痛感させられた事件です。

 

「被害者が障害者であった」という表現や考え方自体が区別であり差別です。

 

この点について裁判などでは被告側も検察側も報道もすべてが重要視し過ぎていて、おかしなことになっているというのが現実だと思います。

 

大量殺人を自分の価値観の押し付けで行ったのだとしたら普通はどうなるのか?

これが今回の事件のシンプルな姿ではないでしょうか?

 

被害者も障害者であることを誇張し過ぎている

被害者遺族のコメントも必要以上に障害にクローズアップされていると思います。

 

当然、これは求められているからという側面もあるでしょうが、

「何か他人と違うところがあればそれが殺されて良い理由になるのか」

「それが障害者だということに何の意味があるのか」

 

真に平等だというのであれば、そこはそんなに掘り下げる部分でもありません。

 

両サイドにおいて、必要以上にこの部分にウエイトを置き過ぎていると思います。

それだけセンセーショナルな事件であったという背景はあるのでしょうが。 

 

そもそも障害者入所施設とは

基本的に重度の知的障害を持つ方は学校を卒業した後には施設に入ります。

 

その施設は色々なものがあり、日中に通って作業をするところもあれば、機能維持・増進を目的とするところもあります。 

人によってはそこから一般就労と言って、企業に就職することもあります。

 

入所の施設は基本的に家で本人の対応を行うことが困難である場合や、家庭環境的に本人の支援が難しい場合に入ることが多くあります。

 

このため、一般的には障害が重たくなる程入所施設に入ることが多くなります。

 

ただ、そういったケースであっても、入所施設でも本人の対する支援の方向性などが確立されると、家庭生活に戻れたり、生活ホームと言われる集団生活の場から、施設に通うなど、自由度の高い生活を送ることができることもあります。

 

僕の勤めていた施設は、家庭に戻る、あるいは生活ホームへ移ることを最終目的とした施設でした。

 

一方、今回の津久井やまゆり園のように、「終の棲家」として存在する入所施設も数多くあります。

 

これらは本人の状況だけでなく、その周囲の環境も踏まえての判断になるので、どちらが良い・悪いというものではありません。

 

ただ、僕のいた施設は支援学校を卒業したばかりの18歳の方は受け入れないという方針を明確に行政にも伝えていました。

 

一度、入所以外のところにチャレンジして、それを家庭が支えられない理由があれば受け入れるが、そういった過程を経ず、学校を出たなら親の責任を果たしたとばかりに入所施設に入れて後は関わらないということを、当時の施設長が良しとしなかったためです。

 

最初は周囲も困惑していましたが、その後やはり家庭では・・・という場合には受け入れる事。

そして「どういった点について解決すれば家庭生活が送れるのか」という問題点も見えてから受け入れるので、将来的な展望も見えることが分かったので、周囲も(僕も含め)ある程度経ってからはこの方法に異論を挟まなくなりました。

 

今回の件で気になるケース

今回、19歳の方も被害者となり亡くなってしまいました。

非常に残念で、それはご家族のコメントなどからも伝わってきます。

 

ですが、これまでの経験から思うところに

彼女は19歳という若さでなぜ家庭生活を諦めて終の棲家に入れられなければいけなかったのだろうか?

 

そして、そんな状況でありながらその子を宝物だったと親御さんに言われても少し説得力に欠ける

 

こういった悶々とした思いが交錯しています。

 

彼女という人間の素晴らしさは親御さんの言葉から分かりますが、そんな彼女をどうして19歳という若さで入所施設に委ねなければいけなかったのかという点について説明がないと個人的には腑に落ちない・・

 

これでは、障害を持つというだけで入所施設に入れた親になってしまうので、そこの説明が実は非常に重要ではないでしょうか

 

こういった話については変に美化するよりもリアルを伝えた方が心に響くことも少なくないので、もう少し踏み込んだ話も落ち着いた頃にして欲しいと思っています。

 

そして、もうひとつ

 

僕の知り合いがこの事件の後、第三者として津久井やまゆり園再建に関わったのですが、事件が起こった場所に再度施設を建てることになった件のやり取りに怒っていました。

 

詳細については開示できませんが、本来は心の傷や立地の不便さを考えて場所を変えるべき所が、同じ場所のままであるという点は不自然としか言えません。

 

誰かを叩きたいわけではありませんが、都合の良い所、悪い所、すべてをさらけ出して議論しないと、今回のような価値観の相違による事件は無くならないとも思います。

 

とは言ったものの、このSNS社会ではうっかりした発言一つで問題になってしまいます。

 

僕の今回のこの内容だって、良いものだとは言い切れません。

 

そんな中で個人の想いを書く・発言することは今後も難しくなっていくのは間違いありません。

 

多様性と言いながら、相手の発言を多様性と認められない、自分の意見に寄せようとするという矛盾が解決しない限り、こういった問題を本格的に解決することは難しいでしょう。

 

最後が今回の問題点とSNS社会の問題点がごっちゃになってしまいましたが、この内容は誰かに読んで欲しいというよりもただ書きたくて書いたものなので、こんなものかな、と思っています。