トレーニングもメリハリをつけて 根性論と現代的練習のはざまで

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トレーニングもメリハリをつけて

日本人は

たくさん練習さえすれば強くなれるという意識を持っているように思います。

だからダッシュ100本のような、もはや肉体的よりもメンタルを鍛えるものとしか思えないような練習が運動機能向上の目的で行われている(いた)と。

そんな僕が学生時代はまさに根性論の時代で、練習中に水は飲めず、走れ走れの練習をさせられていました・・・

どうしてこんなに根性論が好きだったのか、本来はどんなトレーニングを行うべきなのかという点について嗜好しながら書いていきます。

どうして無意味に追い込むことが好きなのか

これは実は僕のことでもあります(笑)

たくさん練習して、安心したい

そして、たくさん練習すれば無条件で強くなれる気がする

こういった背景があります。

だって、僕が昔読んでいた漫画の主人公はみんな血の滲むような努力・修業をすることで強くなっていたから。

うさぎ跳びで階段を昇り、生きるか死ぬかの修業を行い、シュートを2万本打ち・・・

正直科学的ではないものの、それを乗り越えた主人公は以前とは別人のように強くなっていきます。

こういったものを見てきた、そして実際に自分も精神論で育てられてきたので、「努力とは量をこなすこと」という刷り込みができています。

本来あるべき姿として

本当であれば、運動後に体が強くなる分の余裕をどこかに作らないといけません。

・消費した分よりも多いエネルギー摂取と栄養補給

・疲労を取り除き、筋肉を大きくするための休養と睡眠

とにかく1日中運動をしていれば良い訳ではありません。

サッカーであれば1日中激しく試合をしていれば、テクニックは磨かれますが、消費エネルギーが大きくなり過ぎて、体は華奢にることもあります。

疲労を取り除かずに延々と強い強度でプレーしていたら、体が大きくなる分の余裕があまりなないためです。

疲労が溜まれば動きのキレも悪くなるので、テクニックも体のキレの悪さに合わせたものになってしまうこともあります。

良いコンディションで動いてこそ高い技術が身に付くことも多いです。

その為、トレーニング自体にも、スケジュール的にも余裕を持つことが大切になります。

トレーニングのメリハリ

根性論の代表格にもあたる短距離ダッシュですが、これを練習に取り入れるならば、練習の最初が最も効果的です。

体が疲れる前に、最大の力を出すことで、体に十分な負荷をかけることができます。

疲れてから行うとダッシュとしての負荷は十分ではなく、何のためにそのトレーニングを行っているのかがぼやけてしまいます。

僕の頃はダッシュを練習の最後の追い込みとしてやって(やらされて)いました。

これはダッシュではなく、苦しい場面で力を絞り出す精神修業だったと思っています・・・

反する長距離は練習後の苦しい場面で、行うことで目的を達成しやすくなります。

たまに強い高校が最初に取り入れていますが、この場合は長距離というよりは1500mくらいまでの中距離であることが多く、スピードと体力を高いレベルで発揮し続けるという目的から早めに行っていると思います。

こういったように、練習のどの段階で、どのトレーニングを行うかという面だけでも。違いが出てきます。

きちんと目的をはっきりさせて、その目的に沿った練習の方法と順序で行うことが必要だと思います。

根性論は悪か

僕は根性論でのトレーニングのおかげ(?)で

苦しい場面でも耐えきれる精神力を持つことができたという自負もあります。

最近の若い子はこういったトレーニングをしないからうんぬんかんぬんという指導者もたまに見かけます。

だけど、競技をしていれば苦しい場面は必ず訪れますし、それを乗り切れるかは本人次第なのは、以前の精神論の時代から変わらないと思います。

僕らの頃はそれに合わなければ部活などを辞めてしまっていたわけで、そういう人もそれなりにいました。

それに、練習で毎日毎日限界まで追い込むことによる悪影響も懸念されます。

ケガのリスクが高くなったり、成長に悪影響が出たり、走る事に時間をかけ過ぎてテクニカルな部分が疎かになってしまったり。

つまりは、たまに目先を変えたり、何らかの(懲罰的なものを除いて)目的がある場合は根性論的な追込みを完全には否定しないものの、目的がはっきりしていなかったり、科学的ではない方法で取り入れられている場合には、行わない方が成長できると言えます。

まとめ

特に指導者が知識とスキルを持っていない時に、

指導者が「練習をさせた」という満足感を得るために、走り込みをさせることなどは避けるべきです。

やった感を得る為だけに追い込むという点では、僕のようなプレーヤーも同様で、「あれだけ走り込んだのだから」という安心感を得る為だけに走るというのもどうかと思います。

しかもこれをやると、合理的にやっている人に対して「楽をしている」「さぼっている」という色眼鏡で見てしまう事もあります。

それゆえ、知識とスキルのある指導綾が貴重で、そういった人の元でプレーできることは素晴らしい事なんだと思います。

僕もそういう人に巡り合っていたら、もうちょっとバランスのとれた考え方のできる人間になっていたかもしれません。

とにもかくにも根性論という言葉が非科学的トレーニングという意味で使用されている現状であれば、なるべく避ける方が良いと思います。